イスラム文化は、前回お話しましたように、ヨーロッパ地域ではまずアル・アンダルス(イベリア半島のイスラム支配地域)にその華麗な花を咲かせ、それがヨーロッパ全体に伝わっていきました。ところで、これと並んでもう一つ重要なイスラム文化のルートがあります。それは地中海のシチリア島です。
ヨーロッパというと、私たちはイギリス・フランス・ドイツといった国々を思い浮かべることが多いのですが、こういった国々が本当の意味でヨーロッパの科学や芸術をリードし始めるのはルネサンス以降、つまり近代に入ってからであり、フェニキア、ギリシャ、ローマを考えれば分かるように、古代・中世を通して、文明の中心は一貫してほぼ地中海地域にあったと言っていいでしょう。つまり地中海は長い間、ヨーロッパの表玄関だったのです。ローマとカルタゴが戦った3回のポエニ戦争(紀元前3-2世紀)は、地中海の覇権をめぐるローマとフェニキア(カルタゴはフェニキアの植民都市です)の争いでした。
シチリア島はイタリア半島の先端部に位置し、現在イタリアの一部ですが、紀元前3世紀にはローマ帝国の属州に編入され、西ローマ帝国滅亡後の6世紀にはビザンチン帝国(=東ローマ帝国)領になりました。その後831年のイスラム軍のパレルモ占領をきっかけとして、全島のイスラム化が進行します(イベリア半島進出よりも120年遅いことになります)。
ところが11世紀になると、今度はノルマン人(1066年にブリテン島=イギリスを征服したあのノルマン人です)がシチリアに進出を始め、やがて1130年にはルッジェーロ2世のもとでシチリア王国が成立します。シチリア王国は13世紀には最盛期を迎え、ラテン・カトリック、ビザンチン、イスラムの3つの文化が競い合う首都パレルモの王宮を中心として、当時のヨーロッパの最先端を行く国際的な文化が開花するのです。
『中世シチリア王国』(講談社現代新書)の中で著者の高山博氏は、現在のパレルモの旧市街の様子を次のように述べています──
南国の植物に囲まれたこれらの異国風な建物を見ていると不思議な感覚に襲われる。ここは、本当にヨーロッパなのだろうか。イタリアのどの都市とも違う。むしろ、イスラム文化圏に属する北アフリカのモロッコや、あるいはスペイン南部のグラナダやコルドバを思い浮かべてしまう。しかし、これらの遺跡は、実は、イスラム教徒たちがこの町を支配していた時代のものではない。アラブ人の後シチリアを征服したノルマン人の時代に築かれたものなのである。パレルモを歴史の中心に引っ張り出したアラブ人たちの遺跡はほとんど残っていないが、ノルマン期に作られた数々の建築物がイスラム文化の影響を色濃く漂わせているのである。(p. 13)
シチリア王国とはどんな国だったのか、高山氏の説明を聞いてみましょう。
この王国では、異なる三つの文化、すなわち、ラテン・カトリック文化、ギリシャ・東方正教文化、アラブ・イスラム文化が相互に接触しながら、影響し合っていたのである。(p. 23)
今世紀の歴史家たちの多くを引きつけてきたのは ...(中略)... 王国がヨーロッパに対して果たした次の二つの役割であった。一つは、優れた東方文化のヨーロッパヘの輸入基地としての役割である。ここでは、ギリシャ語、アラビア語の著作の多くがラテン語に翻訳され、ヨーロッパに紹介された。首都パレルモにある王宮は、「十二世紀ルネサンス」と呼ばれる中世ヨーロッパの大文化活動の中心の一つだったとみなされている。
もう一つは、ヨーロッパにおける近代行政制度の発展に対して果たした役割である。王国の行政制度は、高度に官僚化し、当時のヨーロッパで最も先進的だったと言われている。その効率的で厳格な行政はイギリス、フランス、ドイツの行政制度に影響を与え、世俗的近代行政の先駆けとなったと考えられている。(pp. 21-22)フランスやイギリスから、あるいは、当時イスラム世界の一部であったスペインから、あるいは東ローマ帝国の首都であったコンスタンティノープルから、多くの人々がこの王宮を目指してやってきた。ある者はその優雅な宮廷文化に憧れて、ある者は最新の学問成果を会得するために、そしてまた、ある者は立身出世を夢見て。ちょうど今日の人々が、ファッションや芸術に憧れてパリヘ行き、ビジネス・チャンスを求めてニューヨークヘ向かうように、野心と才能を持った多くの人々が、当時は、このパレルモの宮廷に引き寄せられていたのである。(p. 14)
引用の中で「12世紀ルネサンス」という言葉が出てきましたが、これはいわゆる14世紀・15世紀のイタリアルネサンスに先行する動きが、これまで中世と考えられていた12世紀にすでにあったという考え方で、通常12世紀におけるシチリア王国の文化、特に、そこで行われたギリシャ語文献・アラビア語文献のラテン語への翻訳事業のことを指していいます。
古代ローマはギリシャを模範とした、と私たちは聞かされていますから、ギリシャ語の主要な文献はほとんどラテン語に訳されているのだろうと思いこんでいますが、実はほとんど翻訳されていなかったのです(教養あるローマ市民はラテン語とギリシャ語のバイリンガルでしたから、翻訳する必要を感じなかったのかもしれません)。ですから中世ヨーロッパの知識人は(ラテン語はできてもギリシャ語はだめでした)、本当の意味ではギリシャ思想を知らない。
ビザンチン(ビザンチン帝国の公用語はギリシャ語であり、この帝国はギリシャ文化の影響を強く受けています)→シリアというルートで、ギリシャ文化に接したアラブ人は、これを高く評価し、その文化を吸収・摂取しようと努めるようになります。彼らは古代ギリシャ語の文献を捜し求め、その多くをアラビア語に翻訳しました。そのアラブ人たちと接触することで、始めてヨーロッパはギリシャに目覚めたのです。そしてヨーロッパの知識人たちは、アラビア語訳のギリシャ文献(およびアラビア語が原典の文献)を夢中になってラテン語に訳し始めました。同時に、当然のことながら、ギリシャ語の原典から直接ラテン語に訳すという動きも盛んになりました。こういったことが12世紀のイベリア半島やシチリア島で起ったのです。
「12世紀ルネサンス」に関しては、『十二世紀ルネサンス──西欧世界へのアラビア文明の影響』(伊東俊太郎、岩波セミナーブックス)という、優れた本があります。先ほどの『中世シチリア王国』は、3つの文化的要素が共存するモデルケースという観点からシチリア王国を論じているのですが、『十二世紀ルネサンス』の著者である伊東氏は、ヨーロッパ文明にあたえたイスラムの影響という切り口で、12世紀ルネサンスという現象に迫っています。
私は、それまでは、ヨーロッパというのは、ずっと古い時代から文明の中心だったと思っていたのですが、日本が西洋文明の弟子であったように、ヨーロッパもアラビア文明の弟子であったことがあるということ、そして二百年くらいたって、やっと自分たちの文明を独自につくり出していったのだということを知りまして、大きなショックを受けると同時に、ある種の教訓を得た思いでした。(pp. 23-24)
「ヨーロッパはアラビア文明の弟子だった」とは、大胆な発言ではありませんか。もちろん賛否両論あると思いますが、こういう仮説で世界史を見直してみると、なるほどと思われることも多く、これまでの私たちの見方はあまりにもヨーロッパ中心であったことに気がつきます。
この本の中で重要だと思われる箇所を引用しておきます──
我々は、西欧文明というと、ユークリッドやアルキメデスや、アリストテレスくらいは、はじめから知っていた、早くからギリシア科学、ギリシア文明はヨーロッパに入っていただろう、と思いがちなんですね。よくヨーロッパの学者は、ギリシア以来三千年の西欧文明とか言うわけですが、とんでもないことで、そこのところに、実は大きな断絶があるのです。ギリシア科学は、西欧世界ではいったん途絶えてしまいます。途絶えて、ギリシアの科学、ギリシアの学術はどこに行ったのかと言えば、これはみんな東の方、ビザンティンに行ったのです。...(中略)... そして十二世紀になって、西欧はアラビア、ビザンティンを介して、こういうギリシアの第一級の学術とはじめて出会うわけです。そこでやっと文明の仲間入りをする、と言っていいくらいのもので、それまでは西欧世界は世界文明史のまったくの辺境にうずくまっていたといえます。十二世紀になってはじめて、彼等はアラビア語を一生懸命勉強して、アラビアの科学や哲学の文献をラテン語に翻訳する、またギリシア語からも翻訳する、そういう大運動を起しまして、そこでギリシアやアラビアの進んだ学術の成果をわがものとし、その後の発展の知的基盤を獲得するということになったのです。(pp. 13-14)
十二世紀に西欧文明というのは、イスラムという異質の文明と血みどろな格闘をして、自分の文明の基盤を確立したということが言えます。(p. 14)
このように十二世紀において、当時の世界文明においてまったくの辺境の地であり、地中海文明の端のほうに寄生しているような存在だった西ヨーロッパが、アラビアとビザンティンを介して、ギリシアとアラビアの学術・文明を受け取り、その後の世界史の中心へと乗り出してゆく知的基盤をはじめてつくり上げることができました。そういう意味で、十二世紀こそ西欧の知的離陸の時代であり、これが他ならぬ「十二世紀ルネサンス」だ、というふうに私は考えるわけです。(p. 19)