イスラムという視点から見たヨーロッパ(その3)
──トルバドゥールとイタリア・ルネサンス──


                                           

 さてシチリア王国は支配者(国王)が、わずか200年ほどの間に、ノルマン系→ドイツ系→フランス系→スペイン系とめまぐるしく変化しながらも、形式的には1860年まで存続するのですが、13世紀前半のホーエンシュタウフェン家のフリードリッヒ2世(イタリア読みだと「フェデリーコ2世」)の時代がシチリア王国の最盛期です。

 フリードリッヒ2世の死去(1250年)からまもなく、北イタリアの諸都市でルネサンスが起こり(ルネサンスの開始は14世紀とされていますが、13世紀の末にすでに始まっていると考える人もいます)、一般にはこれがヨーロッパの近代の開始とみなされます。『ナビゲーター世界史』は「14世紀頃から、地中海商業の発展で繁栄したイタリアの諸都市を中心に、文学・思想・美術・建築・科学などの多方面で新しい文化が生み出されたが、これをルネサンスという」と説明しています。

 ルネサンスという概念をめぐっては、歴史家の間でさまざまな議論があり、いまだに「ルネサンスとは何か」に関して統一見解があるわけではありません。ルネサンス Renaissance という言葉はフランス語であり、「再び(re)生まれる(naissance)」、つまり「再生」という意味であることは、皆さんすでにご存じでしょう。イタリア語ではリナシメント Rinascimento といいます。ギリシャ・ローマの古典文化が14世紀のイタリアにおいて再生した、というのですが、再生したというからには、それまでは死んでいたに違いありません。

 私が中学や高校の世界史でルネサンスについて教わったとき、不思議に思ったことが2つあります──西ローマ帝国が滅亡したのは476年で、ルネサンスは14世紀に始まったとされます。そうするとイタリア半島でほぼ1000年近く途絶えた(=死んでいた)文化が、14世紀になって突如復活したことになりますが、一体そんなことがあるのだろうか、というのが一つ。

 もう一つは、ギリシャ・ローマ文明の再生というけれど、イタリア・ルネサンスを代表する芸術家たち、たとえばダンテ、あるいはミケランジェロやダ=ヴィンチやラファエロたちの作品は、様式的にギリシャ・ローマからの連続とはとても思えない。「神曲」は一体ギリシャ・ローマのどの小説家あるいは詩人の作品を模範としたものなのか。「モナリザ」は? という疑問です。

 この問題を考える前に、平凡社の「世界大百科事典」で、ルネサンスという概念が一般にはどうとらえられているかについて、もう少し詳しく見ておきましょう。

 

 <再生>とは、ひとたび死滅した古代文化がその時代に蘇生したことを意味しており、その限りでは、イタリアを主要な舞台とする。古代の西ローマ帝国の崩壊とともに、それによって支えられていた古典文化は急速に失われていき、1000年に近い長い中世の間に人々によって忘却されていった。しかし、帝国の故地であるイタリアには、廃墟化した建造物をはじめとして、古典籍など古代ローマを想起させるものが多く残存しており、これらを素材とヒントとし、さらに、古代ギリシア・ローマの文献の読解をとおして、古代文化の再現が図られた。その文化は、人間的価値に強く固執し、現世的・世俗的ともいえる明澄さと人間理性の明証性への信頼とを基調としている。これは先行する時代である中世が、キリスト教の神を中枢においた信仰と従順を特質とするのと、著しく対照的である。ルネサンスによって再発見された、このような人間性と理性の尊重と、その成果としての学問・芸術は、ヨーロッパ近代精神の出発点をなしたものと解されている。

 

 ここにはイスラム文化の出る幕はあまりないようですが、ここで、前回お話した「12世紀ルネサンス」という言葉を思い起こしてください。この言葉は、ヨーロッパ近代はイタリア・ルネサンスにおいて突然始まったのではなく、これまで中世といわれてきた時代にすでにその萌芽が見られるという主張を含んでいます。そしてシチリア王国(とイベリア半島)が12世紀ルネサンスの主要な担い手です。

 そうすると当然、時代的に先行する12世紀ルネサンスが14世紀のイタリア・ルネサンスを準備したということになります(同時にルネサンスはなぜイタリアに起こったのか、も説明することができます)。そうして、『十二世紀ルネサンス』の著者、伊東俊太郎氏によれば、シチリア王国において主導的な役割を果たしたのはイスラム文化(彼は「アラビア文明」と言っています)ということですから、文明の系譜から言えば、イスラムが12世紀ルネサンスを引き起こし、それがヨーロッパの近代へとつながっていった、ということになります。

 伊東氏は『十二世紀ルネサンス』の中で、これまでヨーロッパ近代の特徴と考えられてきた、「思考のパラダイム(=根本的枠組み)の転換」と「新しい恋愛観の成立」がすでに12世紀に成立していたと考え、この2つの側面から、イスラム文化がヨーロッパに与えた影響を論じています。

 まず、「思考のパラダイムの転換」というのは、先ほどの「世界大百科事典」の説明にも触れてありましたが、世界を神の秩序と見なさず、神から自立した自然という仮定のもとに、自然をその内部の原因のみで説明しようとする、そういうまったく新しい考え方が生まれた、ということです。詳しい説明は省略しますが、伊東氏は、こういった思考のパラダイムの転換が、イスラムの科学者たちによってヨーロッパにもたらされた、と考えています。

 

 だから自然について、それを理性で考えてゆくということ、自然そのものを合理的に追究してゆくということ──これは十二世紀の西欧世界のまったく新しい思想だったと言っていいと思います。そしてこれはアラビアの影響から来たように思われます。すでに十一世紀にコンスタンティヌス・アフリカヌスにより、アラビアの自然学書や医学書がラテン語に訳されていましたが、十二世紀に入るとアヴィセンナのようなアラビアの有名な自然学者、医学者の自然学書もこの世紀の前半に、もうラテン語に訳されております。このようにアラビアの自然学者たちが、自然について、理性をもとにした研究を行なっていたということが、ここにやはり影響しているだろうと思います。(p. 82)

 

 次に「新しい恋愛観」ですが、これはトルバドゥール詩人たちによって広められました。新しい愛を歌うトルバドゥールたちが南フランスに現れたのは、やはり12世紀のことです。『イタリア・ルネサンス』(講談社現代新書)の著者である澤井繁男氏は、「(イタリア)ルネサンス文化の源泉」として、「シチリアの文化」と「南仏プロヴァンスの詩と愛」の2つを挙げています。「シチリアの文化」というのは、すでに説明したとおり、12世紀ルネサンスの主要な担い手であったシチリア王国のことですが、「南仏プロヴァンスの詩と愛」がトルバドゥール詩人たちの詩を指していることは言うまでもありません。

 セニョボスというフランスの歴史家は「愛は12世紀の発明である」と言ったとのことですが、トルバドゥールたちが歌った新しい愛の形が、ヨーロッパのそれまでの男女関係を根本的に変革し、ヨーロッパ近代小説を生み出す原動力となりました。「(ルネサンスの文芸を代表する)ダンテはペトラルカとともに、ある意味でトルバドゥールの系譜になかにあるといっても過言ではない」と佐藤輝夫氏は述べています(「スーパー・ニッポニカ」の「吟遊詩人」の項を参照)。

 『十二世紀ルネサンス』からの引用を続けます──

  

 ところが十二世紀になると、突然南フランスのラングドックやプロヴァンスの地において、女性を高貴な存在として崇め、彼女に熱烈なロマンティックな愛を捧げるトゥルバドゥールたちの愛の抒情詩というものが高らかに奏でられるようになります。女性を高く評価し、その成就が困難であればあるほど、愛の質が高められるという、新しい「宮廷風恋愛」が出現して来ます。(p. 233)

 

 そしてこのトルバドゥールの成立にイスラム文化が重要な役割を果たしていると、伊東氏は考えています。その理由として、彼は、

  1. 「トルバドゥール」troubadour という言葉はアラビア語にさかのぼることができる(この語源説には異論もあります)
  2. トルバドゥールの発生した南仏のラングドックやプロバンス地方は、スペインのカタロニアに隣接した地域であり、ここは中世イベリア半島のイスラム文化が他のヨーロッパ地域に伝達していく主要なルートの一つであった
  3. 詩の形式がアラビアの韻文の形式(ザジャル詩節)によく似ている
  4. トルバドゥールが用いたリュートはアラビア起源である(「リュート」という言葉の語源自体もアラビア語)

といった点を指摘しています。

 

 それでは一体、十一世紀末から十二世紀にかけて、なぜ、それまで見られなかった、このように優しい愛の叙情詩が突如として南ヨーロッパに出現したかという問題です。...(中略)... それはトゥルバドゥールの発祥地が示しているように、アラビアに発してスペインのカタロニアから南仏のラングドック、プロヴァンスヘと伝えられたと推定されるわけです。なぜなら、ラングドックやプロヴァンスのトゥルバドゥールの前に、アルダルシアからスペインの東海岸に沿って、トゥルバドゥールに近いものがすでに存在していて、彼らはスペインのイスラム教徒から、こうした抒情的な心性、詩の形というものを受け継いだと思われるからです。(p. 243)

 九世紀から十二世紀ごろまで、そのあたり(注:イベリア半島のカタロニア地方と南フランス地方)は、非常にイスラムの影響が強かったわけです。これを切り離しては考えられない。九世紀から十二世紀にかけてのアラゴン(注:イベリア半島内のキリスト教国、12世紀にカタロニアとともに連合王国を形成する)の宮廷文化は、だいたいにおいてアラブ風であり、ペドロ一世はアラビア語でなければ、自分の署名ができなかったと言われるほどです。少し遡って、九世紀にはコルドバの司教のアルバロが、当地のキリスト教徒が猫も杓子もアラビア語の詩や小説を読み耽っていることを半分嘆き、半分諦めの調子で語っています。(p. 247) 

 

 イスラム文化の影響を示すこういった「状況証拠」よりも、トルバドゥール詩に盛られた内容の検討のほうが重要であることは言うまでもありません。伊東氏が「ロマンティック・ラブ」とよぶ、全く新しい愛の概念は、イスラム世界からヨーロッパにもたらされたものだ、と彼は言います。

 

 しかしトゥルバドゥールがアラビアの影響を受けたと言われるのは、こうした詩形式の面だけではありません。スペインのアラビア学者フリアーン・リベーラが指摘したように、さらに内容の上で両者ともに官能的な恋愛を歌うこと、そして恋人を守るために自分の身を犠牲にする男性の心情を歌うことも共通しています。トゥルバドゥールの詩は、女性への崇敬と奉仕に基づくものでした。このロマンティック・ラブの理想が、西欧に初めて生じたのは、十二世紀のラングドックやプロヴァンスの地であったわけですが、...(中略)... これが十四世紀にイタリアに伝わるとダンテやペトラルカを含む清新体の詩というものを生み出します。(pp. 250-251)

 

 このような恋愛観念は、アラビア文化の中でどのような位置をしめていたのでしょうか。

 

 十一世紀イスラムの最大の詩人であったイブン・ザイドゥーンはこの女性への愛の絶唱を数多く残していますが、そこには後のトゥルバドゥールに見られるのと同じロマンティック・ラブの感情がみなぎっているといわれています。さらにさかのぼって、アラビア世界には古くから「愛のために死ぬのは甘美で高貴なことだ」とするウズラ族の愛の伝統がありました。(p. 255)

 

 また、アル・アンダルスの宮廷における女性の地位については、次のように述べられています。

 

 イスラム・スペインの宮廷では、女性は、「暗黒時代」の中世キリスト教世界、または近代のイスラム社会とはまるで比較にならないほど、高い地位を占めていたのであって、豊かな教育を授けられていました。ちょうど日本の紫式部のような人を思い浮べてください。彼女らは書記法や音楽、詩歌の優れた嗜みをもっており、その中には王妃や王女もたくさんいたのですが、最も有名な女流詩人はワッラーダです。彼女はスペインの後ウマイヤ王朝のカリフ、ムハンマド三世の王女でした。(pp. 254-255)

 

 さてこのように、『イタリア・ルネサンス』の中で「ルネサンス文化の源流」として挙げられている二つのできごと──中世シチリア王国の文化と南仏のトルバドゥール──のいずれもが、イスラム文化の強い影響のもとで起こったということが、もし事実であるとするならば、ヨーロッパはその近代文明を成立させていく過程で、きわめて多くのものをイスラム文化に負っているということになります。つまり、イスラム文化はヨーロッパ近代文明が成立するための前提である、と言ってもさしつかえないでしょう。

 異なった文明間の影響関係は実際にはきわめて複雑ですが、ヨーロッパに関しては、つぎの大きな文明伝達の筋道というものが考えられると思います── 

<ギリシャ・ローマ>→<ビザンチン>→<イスラム>→<(近代)ヨーロッパ> 

 ところで14世紀のイタリアに始まる新しい文芸運動はルネサンスと名づけられ、古典ギリシャ・ローマの文化の復興と解釈されたわけですが、そうすると、上の文明伝達の経路から、ビザンチンとイスラムがすっぽり抜け落ちることになります。──と、ここまで考えて、私は思い当たりました。ルネサンスというのは、ヨーロッパがその独自の高い文明段階へと離陸するに際して、多いに貢献のあったイスラム(およびビザンチン)文化の役割を故意に無視するための用語ではないのか、と。

 

 

----- wird fortgesetzt(続く)-----