イスラムという視点から見たヨーロッパ(その4/終)
──イスラム教とキリスト教──


                      

 「ルネサンス」を歴史学用語として定着させたのは19世紀フランスの歴史家ジュール・ミシュレやスイスの歴史家ヤーコプ・ブルクハルトたちですが、「再生」rinascita[リナシタ]という言葉自体は、15・16世紀のイタリア人たちが、自分たちの新しい文化運動の性格を規定する際にすでに何度か用いているとのことです。つまり「再生」は、当時のルネサンス人たちの自己規定(の一つ)ということになります。

 イベリア半島のレコンキスタが完了するのは1492年ですから、15世紀の大半は、イベリア半島におけるイスラム教徒支配は(すでにその支配地域がかなり限定されていたとはいえ)いまだ現実であり、16世紀になっても、その記憶はヨーロッパの人々の心に鮮明に残っていたはずです。そういった中で、ルネサンスをになう文化人たちが、自分たちの新しい文化はイスラム文化とはなんの関係もなく、ギリシャ・ローマ文明を直接受け継いだものだ、と主張しようとしました。これが「再生」という言葉の真の意味でしょう。これは、イスラム文化からのヨーロッパの独立宣言です。 

 なぜヨーロッパはイスラム文化からの独立を宣言する必要があったのでしょうか。それはその当時にはすでに、ヨーロッパのキリスト教徒たちは、イスラム教がはっきり自分たちの敵であると認識しており、ヨーロッパがイスラム教徒たちの文化から多くを学んだことを認めたくない、できればイスラム文化の影響をヨーロッパから払拭したい、つまりヨーロッパを脱イスラム化したいという気持ちを強く持っていたからです。 

 この間の事情を理解するためには、そもそもキリスト教(1世紀に成立)とイスラム教(7世紀に成立)という2つの宗教の間にはどのような関係が成り立っており、当初(=イスラム教の成立時)はお互いが相手をどのようなものと認識し(唯一神信仰を共有する同志か、それとも異教徒? あるいは邪宗の徒?)、それが時代の推移とともにどのように変化してきたのかを知る必要があります。その際、ユダヤ教も視野に入れて考えていかなくてはなりません。

 最近の4次におよぶ中東戦争やパレスチナ紛争を見ると、ユダヤ教徒とイスラム教徒は不倶戴天の敵であるように思われます。またヨーロッパのキリスト教徒のユダヤ人迫害の歴史を知る私たちには、キリスト教とユダヤ教が仲がいいとはとうてい思えませんし、十字軍やレコンキスタの歴史を読み、あるいは今回のアメリカ同時多発テロなどを見せられると、イスラム教徒はキリスト教徒を憎んでいる考えてしまいます。つまりこの3つの宗教は、現代において鋭く対立しあっている、と誰もが思っているようです。 

 ところがキリスト教、あるいはイスラム教が成立した当初に戻って、その当時の状況をふりかえってみると、ずいぶん様子が違うのです。この3つの宗教の関係を、ひろさちや氏は、つぎのように分かりやすく説明しています──

 

 キリスト教というのは、ユダヤ教から出た宗教です。キリスト教の開祖のイエス・キリストは、彼自身は最後までユダヤ教徒でした。イエスには、新しい宗教を開くといった考えはありませんでした。イエスの死後、イエスを「神の子」と信じた人々が創った宗教がキリスト教です。ところが、もう一つのイスラム教のほうも、キリスト教と同じようにユダヤ教から出た宗教です。キリスト教がユダヤ教から出たのは紀元一世紀、イスラム教がユダヤ教から出たのは七世紀のことでした。ですから、キリスト教が長男で、イスラム教は次男の関係になります。キリスト教とイスラム教は、兄弟宗教というわけです。(『キリスト教とイスラム教』新潮選書、pp.13-14)

 

 イエスに新しい宗教を開くという自覚がなかったように、マホメットも最初のうちは新たな宗教を開始するという気持ちはありませんでした。イエスもマホメットも、ともに自分は旧約聖書の中に述べられている(人間に神の言葉を仲介する)預言者の一人であると考えていたのです。 

 旧約聖書は(「ミシュナ」、「タルムード」とともに)ユダヤ教の聖典ですが、旧約聖書をルーツとして、その中からキリスト教とイスラム教は生まれたのです。ところで私たちが「旧約聖書」と言っているこの経典の名称は、「新約聖書」に対する言葉であって、キリスト教でいう言い方です。ユダヤ教ではたんに「聖書」(タナハ)と呼んでいます。

 キリスト教とイスラム教は兄弟宗教であるという話がありましたが、どちらもユダヤ教の本流から分派した新興宗教なのです。イスラム教の立場からすれば、タナハ(=旧約聖書)はユダヤ人たちの聖典なのではなく、セム族共通の聖典であり、そこからユダヤ教とキリスト教が生まれたが、彼らはいずれも神の啓示を正しく解釈していない。この聖典に述べられている予言者の系列の最も正しい継承者こそマホメット(ムハンマドともいいます)である、と主張しています。 

 古代の西アジア地域には、アッシリア語、バビロニア語、ヘブライ語、フェニキア語、アラム語(イエスはアラム語を話していました)、アラビア語といったさまざまな言語が話されていましたが、これらはすべてセム語族に属し、このうちのいくつか(例えばアッシリア語とバビロニア語)は方言関係にあるようで、当時のこの地域の住民は数カ国語を話すのが普通であったようです。

 ユダヤ人とアラブ人は人種的にはともにセム系であり、その言語であるヘブライ語とアラビア語も同じセム語族に属し、この2つは近親関係にある言語ですから、アラブ人であるマホメットも、あるいはヘブライ語が話せたかもしれません(ただしマホメットは読み書きができなかったと言われています)。このようにユダヤ人とアラブ人は人種的にも言語的にも宗教的にも近い民族なのです。意外ではありませんか。

 そういうわけで、マホメットはユダヤ教徒やキリスト教徒に親近感を抱いていましたし、後にイスラム教徒たちがその支配地域を西アジア全域・北アフリカ・イベリア半島・シチリア島へと拡大することになったとき、そこに住んでいたユダヤ教徒やキリスト教徒に害を加えるどころか、むしろ保護するような政策をとりました。彼らにイスラム教を信じるよう強制することは(少なくとも最初のうちは)ほとんどなかったようです。

 イスラム教徒たちは、ユダヤ教徒とキリスト教徒を、彼らと同じ「啓典の民」であるとし、共通の信仰をもつ仲間たちと考えて、他の宗教とは区別していました。「啓典の民」というのは、共通の啓示の聖典(タナハ=旧約聖書のことです)をもつ人々ということで、つまり、同じ人格的唯一神を信じる人々を意味します。したがって、イスラムの支配地域では、ユダヤ教徒とキリスト教徒は、そのまま自分たちの信仰を持ちつづけることができたわけで、事実、イベリア半島やシチリア島のイスラム支配地域では3つの宗教が仲良く共存していたのです。

 

 キリスト教徒のほうでは、「右手にコーラン、左手に剣」といったことばを発明して、イスラム教の征服が「改宗か、しからずんば死か」といった性質のものであったと宣伝し、印象づけます。だが、これはイスラム教への敵意にもとづいてつくられたものであって、誤解もはなはだしいものです。なぜなら、イスラム教の聖典『コーラン』は、イスラム教の宣教にあたっては、「強制しないこと」(10章99節)、「叡知と立派な説教によって説得すること」(16章125節)を条件づけています。したがって、死でもって脅して改宗を迫るようなことはほとんどなかったと思われます。また、実際問題として、征服されたキリスト教徒は、毎年、一定の税金を納めることによって、信仰の自由と生命、財産の安全が保証されていました。つまり、キリスト教徒は、「改宗か? 貢納か?」の選択をすればよかったのです。「改宗か? 死か?」といったような選択は必要でなかったようです。にもかかわらず、キリスト教徒のなかからイスラム教に改宗する者が多く出たのは、イスラム教の宣教活動がすぐれていたからです。(『キリスト教とイスラム教』、p.46)

 

[注]ただし、1031年に後ウマイア朝が滅亡してから50年ほど経って、11世紀末に成立したムラービト朝と、それに続くムワッヒド朝は、キリスト教徒やユダヤ教徒に対して、イスラムへの改宗かそれとも国外退去かの二者択一を迫るようになりますが、こういった方針は、時期的に見て、十字軍に対する反動とも考えられます(以下、立石博高編『スペイン・ポルトガル史』(山川出版社)から引用します)──

 モサラベ(イスラーム支配下のキリスト教徒)やユダヤ人など多様な宗教と民族をうちに含んだアル・アンダルス社会は、強烈な聖戦意識をもつムラービト朝、ムワッヒド朝のもとで大きく変容した。民族的多様性は持続したものの、モサラベとユダヤ人はイスラームに改宗するか、もしくはキリスト教諸国(注:主としてアラゴン・カスティーリャ・レオンといったイベリア半島のキリスト教国のことです)やマグレブ地方(注:現在のモロッコ)への移住を強制された。...(中略)... その結果アル・アンダルスのイスラーム教徒人口は、十二世紀に約九〇%に達し、十三世紀なかばにはほぼすべての住民がイスラーム教徒となった。(p.90)

 

 宗教ばかりではなく、イスラム支配者は、ローマ帝国がそうであったように、一般に異民族に対して寛容な政策をとりました。

 

 歴史的には、「イスラームの世界」はむしろ外に対して開かれた世界であって、そこには異民族の移住者や改宗者をみずからの社会に組みこむ一定の秩序が存在した。(佐藤次高/鈴木菫編『都市の文明イスラーム』講談社現代新書、p.13) 

 イスラーム文明は適材適所に人物を採用する柔軟性を備えていたから、新参の移住者にも、機会を得れば、社会の上層部にのぼってゆける可能性がひらかれていた。そこでは、キリスト教徒の非アラブ人が政府の要職につくことすらあったのである。(同、p.23)

 

 それではキリスト教徒のほうはイスラム教をどう見ていたのでしょう。キリスト教側は、わずか1世紀ほどのあいだに、中近東・北アフリカ・イベリア半島を征服してしまったイスラム教徒たちにたいして恐怖を感じました。特にシリアとエジプトはキリスト教化が進んでいましたから、こういった地域をイスラム教徒に支配されたことは、ローマ教皇にとっては大変な痛手です。これが11世紀末の十字軍派遣につながっていきます。

 ここで十字軍についても少し触れておくと、その第1回の派遣の決定が行われたのは、1095年のクレルモン会議においてです(教皇はウルバヌス2世)。表向きの理由は聖地エルサレムへのキリスト教徒の巡礼者を、イスラム教徒(セルジューク・トルコ)が迫害している、ということでした。しかし実際は、すでに述べましたように、イスラム教徒はキリスト教徒を自分たちの仲間(啓典の民)であると考えていましたので、そのような迫害の事実はほとんどなかった模様です。十字軍がやって来たとき、イスラム教徒たちは、なぜキリスト教徒たちが攻めてくるのか理解できなかったそうです。 

 この第1回十字軍の派遣の時期と前後して、特にキリスト教徒の側から、イスラム教徒を自分たちが戦うべき相手、攻撃すべき敵であると認識し始めるようになります。それと同時にユダヤ人に対する迫害も次第にはっきりした形をとるようになり、1391年(レコンキスタ終了のほぼ100年前)のイベリア半島のほぼ全域でのキリスト教徒たちによるポグロム(=ユダヤ人虐殺)への伏線となっていきます。

 つまりこの時期にヨーロッパの人々は、キリスト教およびギリシャ・ローマ文化を自己のアイデンティティとして、明瞭に意識し始めたといえると思います。逆に言えば、イスラム教やイスラム文化、そしてユダヤ教を「非自己」として拒否するようになっていったのです。

 ユダヤ教とキリスト教とイスラム教は、すでに述べましたように、同じ唯一神を信ずる「兄弟宗教」ですから、最初のうちはお互いに相手を(私たちが考える意味での)「異教徒」であるとは思っていなかった。それが、主としてキリスト教側からのイスラム教・ユダヤ教に対する攻撃によって、次第に近親憎悪へと変化していくのですが、そのきっかけとなったのが、<ヨーロッパ=キリスト教=ギリシャ・ローマ文明の継承者>というヨーロッパのキリスト教徒たちの自己解釈です。

 

[注]ユダヤ教の神は「ヤハウェ」(エホバともいう)であり、イスラム教では「アッラー」といいますから、両者は違う神であると思っている人が多いようですが、アラビア語で「アッラー」というのは、the god ということであり(つまり普通名詞)、マホメットは「ヤハウェ」を「アッラー」と呼んだのです。ちなみに、十字架上のイエスの最後の言葉、「わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給いし」は、アラビア語訳では、「アッラーよ、アッラーよ、なんぞ我を見棄て給いし」となります。

 

 スペインの「異端審問」といえば、その過酷なことで知られています。1480年に、ローマ教皇の許可を受けて、セビリアに最初の異端審問所が開設されたのが、その始まりです。これは、「キリスト教徒を装うユダヤ人」をターゲットにしたもので、35年間に6000人から7000人のユダヤ人が火刑に処されたといわれています。

 なぜ、スペイン・ポルトガルでこのような非寛容な異端審問が行われたのでしょうか。それは、自己をヨーロッパであると意識したスペインが、自己のアイデンティティを確立するため、社会の中に深く根付いたユダヤ教とイスラム教を粛正する必要に迫られたからです。そのため、イベリア半島において、キリスト教の非寛容がもっとも露骨な形で現れることになりました。

 

 スペイン王国は、異端審問制をよりどころにして国家統合を推し進めたが、ポルトガル王国もまた、四〇年余り遅れて異端審問制を設立した。ユダヤ教徒にキリスト教への改宗を強要する一方、改宗者である「新キリスト教徒」への弾圧を強めていった(注:隠れユダヤ教徒、隠れイスラム教徒を見つけだすためです)。このようにカトリック的統合を国是として選び、「キリスト教的一体性」に拘泥することで、イベリア両王国は、ヨーロッパの対抗宗教改革の牙城となったのである。(『スペイン・ポルトガル史』p.15)

 

 ヨーロッパで自己のアイデンティティを確立するため、特に声高に<非イスラム化>を叫ばなければならなかった地域としては、イベリア半島以外に、シチリア王国をかかえるイタリアがあります。14世紀・15世紀にはすでにシチリア王国の支配者はイスラム教徒ではなかったのですが、イスラム文化の影響は社会のあらゆる分野において歴然たるものがありました。

 こういう背景の中で、レバント(=東地中海地域)貿易で富を蓄積した北イタリアの諸都市において新しい文化運動が起こるのですが、それがイスラム文化の影響を受け、イスラム文化を継承する形で生じたということは、当時の知識人はおそらくだれでも知っていたはずです。しかし、それは認めるわけにはいかなかった。なぜなら、ヨーロッパの人々は<ヨーロッパとは何か>という問いに対して、<ヨーロッパ=キリスト教>、つまり「ヨーロッパはイスラムではない」という結論を出したからです。 

 一時、ヨーロッパの中世は暗黒時代であるというイメージが広められたことがあります。これはもちろん、近代以降の「光り輝く時代」と単純に対応させた、中世という時代のとらえかたですけれども、民族が歩んできた歴史のある一時期を「暗黒」などと呼ぶこと自体、考えてみれば不思議な話です。これはおそらく、イスラム文化に圧倒され、深刻な影響を受けたヨーロッパの中世という時代を、評価したくない、できれば隠しておきたいという気持ちの表れだったのではないでしょうか。

 現在では中世という時代の再評価が進み、「12世紀ルネサンス」や「カロリンガ・ルネサンス」といった用語も定着しつつありますが、中世を正当に評価すればするほど、近代ヨーロッパの成立に際してのイスラム文化の役割が明らかとなるわけで、イスラム文化の影響を認めたくないヨーロッパの研究者たちにとっては、ジレンマが深まることになります。 

 このように考えれば、ルネサンス(再生=生き返る)という用語がなぜ採用されたかがよく理解できるようになります。この用語は、近代が希望に満ちた素晴らしい時代であるという高らかな宣言ですが、その反面として、ルネサンス以前の時代、つまりヨーロッパ中世を「死の時代」ととらえるということも同時に意味します。そして中世を死と等置することこそ、このルネサンスという用語が選ばれた真の理由です。なぜなら、キリスト教を自己のアイデンティティとしたヨーロッパにとって、イスラム文化に圧倒された中世という時代をできれば否認したい、それが不可能であれば、せめて注目を集めないようにしたい、そういう気持ちがあって、ルネサンスという用語が選ばれたのではないでしょうか。

 

 

 ----- Ende(終わり)-----