前回は、日本語と韓国語は「薄気味の悪いほど似ている」にもかかわらず、比較言語学の立場からは、その親族関係を証明できていない、というお話をしました。韓国語を勉強してみて、私は「日本にとって韓国とはなにか」ということを考えるようになり、韓国の歴史や文化というものに、これまで以上に注目するようになったのです。そして日本の歴史や文化を新たな目で見るようになりました。
[注]この「韓国の歴史と文化」は、正確には「朝鮮半島の歴史と文化」と言わなくてはならないところです。現在の韓国と北朝鮮、つまり朝鮮半島全体を一括する名称としては「朝鮮」や「コレア」が考えられますが、ここでは──問題があることを認めつつも──「韓国」で代表させることにします。
日本人と日本文化のルーツ、そして日本という国の成立に関してはさまざまな仮説が立てられていますが、(例えば高校の教科書に書かれている)従来の「定説」は、だいたい次のようなものです──太古より日本列島に住んでいた私たちの祖先は、縄文文化と呼ばれる文化を開花させたが、前4世紀頃から、大陸や朝鮮半島より先進の文化(=弥生文化)を受け入れてさらに発展し、やがて統一国家を形成した。その国家を統治した王が現在の皇室の祖である。
縄文文化の担い手たちを「縄文人」、弥生文化の担い手たちを「弥生人」と呼ぶとすると、縄文人=弥生人というのが、この説の主張するところです。縄文文化の担い手であった日本人の先祖たちが、大陸や朝鮮半島の進んだ文化を受け入れて、弥生時代という新しい文明段階に進んでいった、というわけですね。
ところが近年、形質人類学や分子人類学、ウイルス学等の発達に伴い、骨格や頭蓋骨の形と歯形、そしてウイルスやDNAなどをより厳密に比較することが可能となり、縄文人と弥生人との間には、とうてい同一人種とはみなせない相違があることが明らかとなりました。
この問題を解決するため、人類学者の埴原和郎氏は「二重構造モデル」という仮説を提出しています。『日本人の骨とルーツ』という本から、少し長いのですが、引用します。この中で埴原氏は縄文系と渡来系という言葉を使っていますが、渡来系とは弥生人のことであるとお考えください。
すでに述べたように、日本人に北東アジア的特徴が多いのは、渡来集団の影響が相当に強かったことを示すものだろう。さらにいえば、渡来人の数は「無視しうる程度」どころでなく、想像以上に多かったと考えなければ説明がつかない。
現在、日本人集団の形成史は大きな見直しを迫られている。それは単に私どもの人類学的研究の成果によるばかりでなく、あいつぐ考古学の新発見や、さまざまな遺伝子の研究などに負うところが大きい。これらの成果を含めて説明するためには、どのようなモデルが考えられるだろうか。
まず、日本の旧石器時代人や縄文人は、かつて東南アジアに住んでいた古いタイプのアジア人集団──原アジア人──をルーツにもつということが問題の出発点となる。縄文人は一万年もの長期間にわたって日本列島に生活し、温暖な気候に育まれて独特の文化を成熟させた。気候が冷涼化するにつれて北東アジアの集団が渡来してきたが、おそらく彼らも、もともとは縄文人と同じルーツをもつ集団だったのだろう。異なる点は、長い期間にわたって極端な寒冷地に住んだために寒冷適応をとげ、その祖先集団とは著しい違いを示すようになったことである
大陸から日本列島への渡来は、おそらく縄文末期から始まったのだろうが、弥生時代になって急に増加し、以後、七世紀までのほぼ一〇〇〇年にわたって続いた。渡来集団はまず北部九州や本州の日本海沿岸部に到着し、渡来人の数が増すにつれて小さなクニグニを作り始めた。さらに彼らは東進して近畿地方に至り、クニグニの間の抗争を経てついに統一政府、つまり朝廷が樹立された。
その後朝廷は積極的に大陸から学者、技術者などを迎え、近畿地方は渡来人の中心になった。また土着の縄文系集団を「同化」するため北に南にと遠征軍を派遣し、一部の地方には政府の出先機関も設置された。渡来系の遺伝子はこのようにして徐々に拡散したが、縄文系と渡来系との混血は近畿から離れるにつれて薄くなる。現代にもみられる日本人の地域性は、両集団の混血の濃淡によって説明される。混血がほとんど、あるいはわずかしか起こらなかった北海道と南西諸島に縄文系の特徴を濃厚に残す集団が住んでいることも、同じ論理によって説明することができる。 (『日本人の骨とルーツ』角川書店、pp. 44-45)
この「二重構造モデル」仮説は、現在ほぼ学会に受けれられているようです。この説の新しい点はつぎのとおり。
現在は、先ほども言いましたように、人骨(特に頭蓋骨と歯形)やDNAの解析、体内のウイルスの調査などで、人種の特定が以前よりも厳密にできるようになっていますが、その現在までの成果によれば、現在の日本人における縄文人と弥生人の混血の割合の平均値は、「3対7」程度だとのことです(「2対8」という説もあります)。弥生人を渡来系と呼ぶとすれば、縄文人は土着系ということになりますが、なんと渡来系の割合が土着系の2倍以上ということになるのです。
[注]「縄文人」や「弥生人」といっても、人類学的にいって(「韓国人」や「日本人」や「中国人」がそうであるように)おそらく単一民族ではないはずですから、話はそれほど簡単ではありません。しかし「縄文文化」や「弥生文化」を担う「母集団」(=同じ文化を担う人種的に同一の多数派集団)といったものは存在したはずですから、それを縄文人や弥生人と呼ぶことはできるでしょう。
ところで、日本海沿岸で発掘されている多くの遺跡から考えて、渡来系である弥生人たちが、主として朝鮮半島からやって来た人たちであることはほぼ間違いないでしょう。そして日本語と韓国語(=朝鮮語)との「気味が悪いほどの類似性」や日本人と韓国人のメンタリティーの親近性から見て、縄文文化が日本文化に与えた影響(あるいは「残した影響」と言ったほうが正確かも知れません)は、従来考えられているほど大きくないと私は判断します。
[注]国立民族学博物館教授の小山修三氏は、古代の日本の人口の推移を統計学的処理によって推測していますが、それによれば日本の人口は縄文時代の末期には一度極端に減少し、それが弥生時代に入って爆発的な増加を見せているとのことです。このことも日本文化や日本人のルーツということを考える際には参考になると思います──
これ(注:「先史時代の人口と人口密度」と「先史時代の人口の推移」の表のこと)をみると、縄文時代の早期(八千年前、20,100名)から前期(六千年前、105,500名)にかけて[人口が]急増し、中期(四千三百年前、261,300名)にピークを迎える。その後、減少し、何と晩期(三千年前、75,800名)にいたっては、中期の三分の一以下に当たる七万五千人台にまで落ち込む。それは壊滅状態とも言えそうな人口崩壊である。問題はここからだ。弥生時代(二千年前、594,900名)には何と八倍近くの五十九万人台に激増しているのである。さらにそれから七百年が経過した奈良(土師期、5,399,800名)時代になると、十倍近く増えている。(隈元浩彦『私たちはどこから来たのか』毎日新聞社、p. 139)
「正直言いますと、計算した当初は、私自身、外からの人の流れ込みは余り考えず、単に稲作が始まった影響かと思ったのです。だけど、埴原さんは『この伸び率は異常に高いぞ』と言われましてね。大勢の渡来人が来た、と考えられたわけです」。埴原氏というのは、日本人の「二重構造モデル」論を提起する東大名誉教授の埴原和郎氏のことである。そして、こう付け加える。「ええ、そうなんです。落ち込んでいた人口が弥生時代になって急激に伸びているんですね。いったん人口が落ち込むとなかなか元に戻らないんです。パチンコ、競馬をしていて負け続け、借金でもしたらもう、立ち上がるのが大変でしょう。それと同じことなんです。今では、一番ありそうな話だな、と思っています」。一度、人口が減少傾向に陥ると、元の水準に回復するのは難しい。にもかかわらず、弥生時代に入ると人口が急増する。これを説明するのに、小山氏は埴原氏同様、海を越えて渡来してきた人たちの影響を着想したというのである。(同書、p. 141、解説者は小山修三氏)