『新しい歴史教科書』に見られるバイアス
さすがに「万世一系」とは言えなかったようですが、天皇中心の日本歴史であるという点が『新しい歴史教科書』の最大の特色です。随所に1〜2ページのコラムを挿入するという体裁をとっており、これはこれで興味深い試みであると思いますが、問題はその内容です。このコラムに著者たちの本来の主張が(本文よりも)はっきりと現れているので、コラムだけ拾い読みしても、この教科書が何をめざしているのかが分かります。
以下、「天皇(制)の美化」「ユニーク性の強調」「渡来人の果たした役割を正しく理解しない」「朝鮮半島の文化の影響を無視・軽視」を示す部分を、この教科書から拾い出してみます。
A. 天皇(制)の美化
最初から2番目のコラムが「神武天皇の東征伝承」であり、最後のコラムが「昭和天皇──国民とともに歩まれた生涯」で、天皇重視の姿勢は至るところに見られます。いちいち例を挙げるまでもないのですが、「源頼朝と足利義満──天皇と武家の関係」(pp.
108-109)というコラムがおもしろいので、引用してみましょう。
- 頼朝が全国の武士から頭として心服された背景には、頼朝自身の指導者としての力量のほかに、清和天皇の血統を受けついだ源氏の出身という要素も影響していた。
後白河上皇と対立した平氏を討つために、上皇の皇子・以仁王(もちひとおう)のよびかけに応じ、兵を挙げた頼朝は、平氏が落ちのびるときに奉じた安徳天皇の身の上を心配し、武士たちにその安全をはかるよう指示した。鎌倉に幕府を開いてからも、京都の朝廷をうやまい、天皇を重んじる姿勢を変えなかった。自分の娘を天皇にとつがせ、朝廷と幕府の安定した関係を築こうとの願いももっていた。
頼朝のこうした態度は、のちの武家の権力者にも影響を与え、朝廷と幕府の関係の基本となるあり方を、長く規定した。(p.
108)
- ところで、武家の中で、天皇の権威にいどもうとした人物が、まったくいなかったわけではない。室町幕府の3代将軍足利義満(1358-1408)などはその例である。
...(中略)...
このように、政治家としてきわだった力をもっていた義満は、それまでの武家の権力者が行わなかった、天皇の権威への挑戦を試みた。
義満は将軍を超えた地位を望み、将軍の職を息子の義持にゆずって、天皇の臣下として朝廷でもっとも高い地位の太政大臣についた。さらに、その太政大臣もさっさとやめて、前の将軍で、その上、前の太政大臣でもあるという、これまでに例のない立場から、武家と公家の両方に、思いのままに権力をふるおうとした。やがて上皇に匹敵する権威と権力をかね備えることを目指していたとみられる。
しかし、急な病気にかかって、むなしく世を去る。その後、代々の将軍から義満のまねをしようとする者はあらわれなかった。(pp.
108-109)
あまりに露骨なのでコメントする気にもなりません。「急な病気にかかって、むなしく世を去」ったのは天罰だ、「その後、代々の将軍から義満の(ようなバカな)まねをしようとする者はあらわれなかった」と書けば、よりいっそう趣旨が明解に伝わると思うのですが
...
B. ユニーク性の強調
著者たちの「ユニーク信仰」は、ただちに「日本人優秀論」に結びつきます。
- 縄文時代には、火炎のような土器や奇妙な土偶、弥生時代には幾何学的な銅鐸などが製作された。また、古墳時代に入ると、おおらかな埴輪が作られ、前方後円墳のような巨大な墓も建設されている。それらの形は、世界美術の中でも類例のないものである。(グラビア p.
1)
- 日本人は大陸の文化を積極的に取り入れながら、独自の美意識に裏づけられた、世界にほこる美術作品を生み出してきた。(グラビア p.
4)
- 美を感じとる豊かな心をもつ日本人は、...
(以下略)(グラビア p. 4)
- 日本の歴史を今、学習し終えたみなさんは、日本人が外国の文化から学ぶことにいかに熱心で、謙虚な民族であるかということに気がついたであろう。外国の進んだ文化を理解するために、どんな努力もしてきた民族であった。(「歴史を学んで」p.
313)
最後の引用は、「後書き」である「歴史を学んで」の冒頭部分です。この「後書き」は著者たちの、国を憂うる心情が現れていて、興味深いのですが、ここでは残念ながら触れられません(長くなるので)。
C. 渡来人の果たした役割を正しく理解しない(<縄文人自然進化説>)
- しかし、縄文の文化が突然変化し、弥生の文化に切りかわったのではない。ちょうど明治時代の日本人が和服から洋服にだんだん変わったように、外から入ってきた人々の伝えた新しい技術や知識が、西日本から東日本へとしだいに伝わり、もともと日本列島に住んでいた人々の生活を変えていったのである。(p.
29)
- 中国は、紀元前の段階ですでに、文字、哲学、法、官僚組織、高度な宗教などを十分に身につけた古代帝国時代を経過していた。文化は高きから低きに流れるのを常とする。朝鮮半島を通じて中国の文化は日本に流入した。戦争などで百済との交流が盛んになるにつれ、人の往来もひんぱんになった。
主に5世紀以降、大陸や半島から技術をもった人々が一族や集団で移り住んだ。彼らは、土木・金属加工・高級な絹織物・高温で焼いたかたい土器(須恵器)づくりなどを、日本列島の人々に伝えた。鉄の農具や武器も、大量につられるようになった。同じころ、漢字使用もようやく定着し、儒教も伝来した。漢字漢文を書くことに未熟な列島人に、外から来た人が指導し、外交文書や朝廷の記録の作成を手伝った。技術や文化を伝えたこれの人々は、帰化人(渡来人)と呼ばれる。大和朝廷は、彼らを主に近畿地方に住まわせ、政権につかえさせた。
大和朝廷の頂点に立つ人は大君と呼ばれ、まだ天皇のよび名はなかった。地方の豪族は同じ血縁を中心にした氏という集団を作り、大王から臣や連といった姓を与えられ、氏ごとに決まった仕事を受けもった。これを氏姓制度という。有能な帰化人は、こうした制度の中に組み込まれていた。(p.
39)
最後の引用はそれほど問題はないのではないか、と考える人もいると思いますが、「帰化人」という概念と「渡来人」という概念を──おそらく意図的に──混同していることが問題なのです。「渡来人をすべて帰化人と思いたい」という著者たちの願いが、ここに反映しています。
この一節を読めば、大和朝廷はまるで土着の権力であるかのようですが、読者にそのように思わせようとするのが著者たちの意図です。『日本人の骨とルーツ』(「二重構造モデル」)にもありましたように、大和朝廷は渡来人(=弥生人)たちのつくった国家(あるいは少なくとも「渡来人たちが中心となってつくった国家」)であるということは確実ですから、それをなんとか隠したいのです。
D. 朝鮮半島の文化の影響を無視・軽視
前節の引用で、朝鮮半島の文化にまったく独自性というものが認められていないことに気がつかれたでしょうか。「仲介者・伝達者としての朝鮮半島」ですね。これに関連して、「日本語の起源と神話の発生」という、この教科書の一番最初のコラムを読んでみましょう。日本語の起源を説明した部分です。
(日本語の)起源は謎だが、基礎的な単語の音や用法が日本語に類似している例として、学者たちはビルマ系、カンボジア系、インドネシア系、オーストロネシア(マレー・ポリネシア語族など)系の言語をあげており、インド南部のタミル語との近似性を指摘する学者もいる。(pp.
30-31)
日本語の起源が解明されていないというのは事実ですが、「日本語に類似している言語」として、当然挙げなくてはならないはずの「韓国語」(朝鮮語)が、ここには見あたりません。日本語のルーツをさぐろうとすれば、普通真っ先に検討の対象になるのが韓国語ですから、著者たちは、よほど言語学方面には不案内なのか、それとも意図的に落としたか、いずれかであるということになります。
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