献体とは
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献体に寄せて 

お母さん、私も献体登録しましたヨ

岡川俊子

 母と育てたサンショやハナミズキが今年もたくさん花をつけました。リラも花が終わって勢いよく、ひとまわり大きくなりました。
 人一倍わがままな母親は人一倍強情な娘と反発しあい、突っ張り合いながら、季節の移りかわりの中で春の摘草に桜吹雪のドライブ、そして紅葉狩りへ、冬の温泉と思い出をたくさん残して晩年を一緒に暮らしました。
 献体登録した母のもとに送られてくる小冊子を私も読ませていただいていましたが、医者を目指す若者達が解剖実習に際し遺体を前にして、名も知らぬ人の生前に敬虔な想いをはせ、医学を究めようと真摯に実習にとりくむ様に感動してきました。
 母が亡くなり、生前の希望どおり家族でお別れをして翌朝、獨協医科大学の解剖学教室の先生が母を迎えにきてくださいました。真情のこもった応対に、献体への不安は解消しました。死した後は、悲しみや苦しみや喜びさえもある筈はないと思いながら、母が淋しくないようにとの思いもあって私も献体登録しました。
 まもなく「高齢者」の仲間入りする私は、行政の老人医療のあり方に疑問を持っています。しかし、それはそれとして誰もが心身ともに健康で長生きし、天寿を全うできる社会がくることを願い、医学の進歩のための一助となれることをうれしく思っています。母の顔を思いうかべながら私は献体の日まで悔いのない一生でありますように、健康にも気を配りながら、心豊かな日々を送っていきたいと思っています。


母の献体と散骨

獨協白菊会 平松 緑

 母が亡くなって3年余りが過ぎ、長年の母の希望であった献体と散骨を済ませて今、長女の私は時々寂しく思うことはあっても、悲しくはありません。
 大正元年生まれの母は、大変に進歩的なモガ(モダンガール)で運転免許証は日本女性で4番目に取得、オープンカーに乗り、ダンスを教え、着物から洋装に変わる時代、ドレスメーカー女学院の2期生でした。洋装に切り替える奥様、お嬢さん達の下着から全部、作っていました。今で云う所のコーディネーターかスタイリストの走りでしょうか?進歩的な夫の影響を受け、どんどん前に突き進んでいく人でした。そして太平洋戦争を世田谷で体験しました。5歳の私の一番最初の記憶は、戦火にまみれ、火の海の中、水につけた布団をかぶせられ、リアカーに乗せられて、父母、妹と私で甲州街道を逃げ惑った思い出です。母はとても強く魅力的な女性で、戦後、母のふるさとの山口に帰っても、物資のない頃なのに、毎週末、里親として孤児院の子供達を、2~3人自宅で面倒を見ていました。私と妹とその子供達に、すべてのことが平等でした。
 でも、そんな母が昔から自分も入るであろう墓参りに行く度に、こんな冷たく狭い石の中に入りたくない、灰になって、何処かに飛んで行きたいと言っていましたが、30年も前、献体の事を知り、本人は決めつつも古い里の親、兄弟を説得する事は大変な事でした。医科大学を目指していた従兄も手伝ってくれて、献体登録と一緒に、散骨の会にも入りました。母の口癖の精神は私の物、体は天から借りているので、人の役に立つ献体にするとの、精神を私も尊重しました。母の最後の心配は、こんなにヨボヨボに年取った体が、医学の役に立つのかしら、という事でした。獨協医大の会に出席する度に、こんなに厳かに、そして学生さん達の献花、先生達や皆様に祈っていただいて母も本望ではないかと思えるようになり、私たち夫婦も献体登録をしました。火葬に立ち会い献体事務室の方々にも散骨の事を伝え、お手伝いしていただきました。
 お母さん!これで一人のお医者様を生み出すお手伝いが出来て善かったね!と心で祈りました。散骨も富士山の見える駿河湾の海に、段ボール箱一杯分のバラの花びらと一緒に散って行きました。今頃、母は好きだったアフリカやベネチアの海を旅している事でしょう。獨協献体事務室の方々、先生方、お医者様の卵の方々、すべてに感謝です。
 どうぞ卵の方々も、親鳥になるまで、頑張って下さい。世界中でお医者様を待っている人が、たくさんいます。必ず、研究者やお医者様になると信じて解剖の実習にのぞんで下さい。多分、これが献体を登録されている方々の希望だと思います。