獨協白菊会 献体事務室

献体に寄せて

お母さん、私も献体登録しましたヨ
岡川 俊子

母と育てたサンショやハナミズキが今年もたくさん花をつけました。リラも花が終わって勢いよく、ひとまわり大きくなりました。
人一倍わがままな母親は人一倍強情な娘と反発しあい、突っ張り合いながら、季節の移りかわりの中で春の摘草に桜吹雪のドライブ、そして紅葉狩りへ、冬の温泉と思い出をたくさん残して晩年を一緒に暮らしました。
献体登録した母のもとに送られてくる小冊子を私も読ませていただいていましたが、医者を目指す若者達が解剖実習に際し遺体を前にして、名も知らぬ人の生前に敬虔な想いをはせ、医学を究めようと真摯に実習にとりくむ様に感動してきました。
母が亡くなり、生前の希望どおり家族でお別れをして翌朝、獨協医科大学の解剖学教室の先生が母を迎えにきてくださいました。真情のこもった応対に、献体への不安は解消しました。死した後は、悲しみや苦しみや喜びさえもある筈はないと思いながら、母が淋しくないようにとの思いもあって私も献体登録しました。
まもなく「高齢者」の仲間入りする私は、行政の老人医療のあり方に疑問を持っています。しかし、それはそれとして誰もが心身ともに健康で長生きし、天寿を全うできる社会がくることを願い、医学の進歩のための一助となれることをうれしく思っています。母の顔を思いうかべながら私は献体の日まで悔いのない一生でありますように、健康にも気を配りながら、心豊かな日々を送っていきたいと思っています。

獨協白菊会 宮本 五八二子

私の名は、「五八二子」昭和五年八月二日生まれ、八十三歳になるまで「いと子」と呼んで下さったのは女学校の国文学の先生お一人。「お前の親は学がありますね。」と。長い人生の背を押し続けてくれたのはこの言葉でした。
平成二十五年二月献体登録を済ませ、九月献体登録者の集いに参加しました。もやもやが消え献体登録をしたことを誇りに思えるようになりました。その過程を書いてみます。
平成十六年、五十年連れ添った夫が他界。同年代の人から「ご主人が他界して良かったですね?それともご愁傷さま?」とのご挨拶を受けました。夫は約二十年アルツハイマーを患い、最後は介護サービス、要介護五となりました。特養入所は許可されず、介護老人保健施設にショートステイとして許可されました。一度もベッドに入ることも無く徘徊。これではと週二回通所介護を希望、入浴を依頼しました。帰宅した夫の両手は紫色に腫れ上がっていました。
これではと思い介護部屋を新築し、家の周りはフェンスで囲み徘徊を防ぎました。そんな夫をご存じの方の挨拶だったのです。どんな夫でも死を受け入れることが出来ず月日は流れました。次の年、孫から「獨協医大医学部合格」との電話。平成十八年度獨協医科大学医学部入学式と祝賀会に参加しました。夫の墓参りしか出来なかった私の変容。構内の桜も満開でした。
孫のクラブ「管弦楽団 定期演奏会」その他の行事にも毎年参加しました。孫は「父のようにおばあちゃんの健康管理をしたい。」と言い出しました。平成二十四年三月の卒業式・謝恩会にも参加しました。十九日「国家試験合格の通知」孫は六年間の学校生活をあんなに謳歌していたのに合格?信じられないほどでした。学長先生はじめ諸先生方の御恩を痛感しました。
「何かお礼をしたい。」と色々と考えた末、献体登録をしたのです。人権擁護委員・国際ボランティア推進委員傾聴ボランティアと、社会貢献に心がけ最後の献体登録も終了。安堵しました。そのことを友人に話すと「家族も居るし、お墓もあるのに。」「献体なんか路上生活者のやること。」「葬式代がないから献体でもしようかな。」等の反応がありました。
九月七日悩みながら献体登録者の集いに参加しました。左隣のご夫妻は「交通事故で死んだ息子が社会貢献を望んでいたので献体をし、自分たち夫婦も献体登録をしました。」と。
右隣のご夫婦も「社会貢献のために。」前方の人は「難病から救われたので。」と皆さま、生き生きと話して居りました。
「人の考えは十人十色。」献体登録者の集いに参加して、しみじみ考えさせられました。私も最後の遺体まで社会貢献としてご利用いただけることに幸せを感じました。大学の職員の皆さまに感謝申し上げると共に、先生方のユーモアなお話しを思い出し楽しんでいます。